竹内良男さん主宰『ヒロシマ連続講座』第95回 小村公次さん講演「戦没作曲家・音楽学生の残した音楽」 ⑤

草川宏は1921年(大正10年)東京生まれ。東京音楽学校予科から翌年本科作曲科に。1944年6月応召、翌年6月にフィリピン・ルソン島バギオの北50㌔付近のボントック街道での戦闘で戦死。

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草川宏

バギオはマニラの北にある街。たった一度の訪比でマニラの外へ日帰りの旅行をしたのがバギオだ。常夏のフィリピンにあって年中冷涼な気候で過ごしやすいところ。

 

アメリカ軍は、レイテ沖海戦(1944年)で勝利をおさめると、1945年ルソン島奪還作戦に出る。マニラ港を兵站として確保することと捕虜解放を目手として、沖縄戦同様3日間の艦砲射撃の上上陸、激しい戦いを繰り広げる。マニラ市街戦と言われるこの闘いでマニラ市民10万人が犠牲となっている。

 

当時、マニラ市内には約70万人の市民が残っていた。その多くがアメリカ軍に協力的で、直接ゲリラとして日本軍と戦闘するものもいたという。

マニラ戦において、日本軍はエルミタ地区(Ermita)などにおいて同盟国のドイツ人、中立国のスペイン人などヨーロッパ系白人を無差別に殺戮し、白人の未婚少女を標的とした性暴力も目立ち、特に婦女子の強姦を組織的に行った。当時メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのフィリピン代表として勤務していた映像制作のフランシスコ・ロペス(Francisco Lopez)は以下のような日本軍の行動を経験した。

1945年2月10日、日米両軍による激しい砲火の下、当時35歳のロペスは500人以上の隣人や家族と共に戦火から逃れようと、エルミタ地区のフィリピン在住のドイツ人クラブの建物の地下に避難していた。午前10時頃、日本軍の部隊がクラブを包囲し、誰も地下スペースから出てはならないと命令する一方で、施設内ではクラブの中心にあった絨毯、椅子、テーブルを、施設の入口ではスーツケース、缶詰の包み、避難民が持参していた衣類を積み上げてガソリンを撒き、火を放った。女性や子供たちはパニックに陥り、「トモダチ!友達です、私たちは友達です!」と叫んだ。ドイツ人クラブのマルティン・オハウス(Martin Ohaus)は、ドイツが日本と同盟を組んでいることを材料に避難民のことを考慮してくれるよう日本軍の士官を説得しようとしたが、士官はオハウスを突き飛ばして足蹴にした。赤子を抱えた母親たちは命乞いをしたが、海軍兵士らは銃剣で赤子を突き刺し、地面に叩きつけた。そして女性たちの髪を掴み、強姦し始めた[3]。20人を超す海軍兵士たちが13歳に満たない外見の少女を輪姦した上、少女の乳房を切り取り、そのうちの一人が自分の胸に切り取った乳房を押し当てて女の真似をし、他の兵士たちはそれを囃し立てた。海軍兵士たちは他複数名の女性も強姦した挙句、髪にガソリンを撒いて焼いた。また、同じ現場ではロペスの使用人の一人 Bernardino Calub も当時2歳の息子を竹槍で突き殺され、下手人に仕返ししようとして袋叩きにされた挙句連行されたロペス邸跡のガレージの柱に縛り付けられ、性器を切断されて口内に突っ込まれた[3]。ロペスは母カルメン(Carmen)と別れてクラブを脱出する決断をし、弟のホセ(Jose)や隣人のホアキン・ナバロ(Joaquin Navarro)と共に逃げ出すが、ロペス以外の2人は撃たれて倒れてしまった[3]。ロペス自身も左足を撃たれるが死んだふりをして兵士をやり過ごした。姉マリア(Maria; 当時40歳)はクラブからの脱出に失敗して焼死し、義姉フリア(Julia; 当時28歳)は日本軍兵士に輪姦され、乳房を切断、髪にガソリンを撒かれて焼かれ、知人の女性も殺害後に死姦された。

歴史学者の中野聡はマニラ戦下の日本軍による残虐行為について、「死を目前にした日本人兵士たちの人種的コンプレックスの暴発、エスニック・バイオレンス(人種暴力)の場としての様相を呈していた」としている。

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逃げ惑うマニラ市民

読むに堪えない記述である。

 

日本軍は、30万人の兵隊を3か所に配置、そのうち山下奉文大将が15万人の兵を率いて北部バギオを守備したのが尚武集団と言われる部隊。草川はその中の1人だったのではないか。尚武集団は1月にバギオ付近にいたというから、草川は亡くなるまで約半年、闘っていたことになる。

 

・・・バギオ地区では日本軍が4月までアメリカ軍の北進を阻止していたが、西海岸からナギリアン経由で迂回侵攻され、4月下旬にバギオは陥落した。その直前に方面軍司令部はカガヤン渓谷へ脱出し、ホセ・ラウレル大統領らも日本本土へ避難した。

バレテ峠でも日本軍は力戦し、陣地を侵食されながらも5月まではカガヤン渓谷への連合軍進入を防いでいた。しかし、物資や食糧が減少していくとともに戦力も低下し、6月1日についに日本軍は退却した。日本軍は、バギオから後退してきた第23師団らと合流して第二線陣地へ向かった。(Wikipediaから)

 

退却を始めた次の日に草川は亡くなっている。兵力は5分の1(北部ルソンでの死者は127000人。レイテ島も含めたフィリピン戦線での死者は33万人を超えるという))に、 食料も不足し、飢餓や病気に倒れるものも多かったという。いまだ遺骨収集もされず、亡くなった場所も特定されない人々がほとんどのようだ。

しかし、それ以上に他国を蹂躙し、日本兵が働いた悪逆非道な行為を忘れてはならない。遺骨収集はその地の人々への謝罪を抜きに行われてはならないと思う。

 

宏の父親は、草川信。やはり東京音楽学校出身の作曲家。前回紹介した「兵隊さんの汽車(汽車ポッポ)」や「夕焼け小焼け」「ゆりかごの歌」などをつくっている。「軍備品としての音楽」をつくった人。

宏の長兄は草川宣雄(オルガン、理論、教育)、三兄は草川友忠(ヴァイオリン、作曲、東京音楽学校甲種師範科卒)、従兄の草川啓は作曲部の2年先輩。

 

当時、草川家にはのちに「夏の思い出」「雪の降る街を」などを作曲する中田喜直1923年生まれ)や葛原守(1922年生まれ)などが出入りしていたと言われる。葛原は台湾で戦病死するが、中田は3000曲を超える曲をつくって日本を代表する作曲となった。

 

草川の曲は楽譜が残っているものが多いのか、声聴館のHPで21曲聴くことができる。小編成の合奏曲と声楽が多いが、いずれも抒情的で豊かな音楽性を感じさせてくれる。

 

https://archives.geidai.ac.jp/kusakawa/

 

 

 

葛原守は、草川の一つ年下。草川と同じ年に予科入学、翌年本科気学科に進み、ピアノを専攻。1943年9月の卒業演奏会でショパンの幻想曲ヘ短調Op49 を演奏、幸田奨学賞を得て繰り上げ卒業。出征までのわずかな期間、プロとして活動していた証として、「出演謝金20円」の紙片2枚が残っているという。

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葛原守

翌1944年3月に広島の部隊に入隊、フィリピンで罹病、台北で1945年4月に亡くなっている。

 

ちなみにこのショパンの幻想曲ヘ短調だが、「????」と思わされる。冒頭部分で繰り返される旋律が中田喜直の「雪の降る街を」のメロディーに酷似しているのだ。いまならパクリと言われても仕方がないが、「雪の降る街を」そのものは名曲として定着している。

曲自体は、わりあい地味だが難易度は高いらしい。かなりの弾き手でなければ客は退屈してしまう、そんな曲をあえて卒業演奏会の曲に選んだ葛原は練達のピアニストだったのだろう。

 

 

「葛原の同期で、戦後、長年にわたる演奏活動と厳しい指導で知られ藝大名誉教授となったピアニスト・田村宏(1923-2011)は、葛原について「生きていれば藝大の先生になる人だった」と語った(2009年談)。(声聴館の解説から)

オーボエ独奏曲《無題》(1942)

https://archives.geidai.ac.jp/kuzuhara/

 

 

新元号。自分の時間は自分が支配する。だれかに支配されたくない。自分の人生は自分のものなのだから。

 お願い

 はてなブログ、昨日の朝から「記事を書く」が出なくなり、何もできなくなった。仕方がないので、ログイン時のwinterreiseundkeiを入れて、いろいろやっていたら、また「記事を書く」が出てきた。そして今日、記事を書いたところ、ブログ名はwinterreiseundkei'sdiaryに変わってしまい、新しいブログがスタートしてしまった。

どうして記事が書けなくなったのかは分からずじまい。

今までの読者にドメイン名が変わったことを知らせる方法も知らない。もし、これを読んだ方、あるいははてなの運営の方、元のkeisuke42001'blogに戻る方法がわかりましたらご教示ください。

 

 

 

 

 昨日は早朝から、テレビはどこのチャンネルも元号一色。

   NHKも「発表まであと〇時間ですね」などとやっている。

  早朝に出てから深夜までの一泊二日、新幹線と高速バスに長時間揺られて会津を往復した身には、なんとも喧しいことこの上ない。

 

 

 

 お昼にテレビのスイッチを入れると、テレ東の『昼めし旅』という番組。「あなたのご飯、見せてください」というやつだ。さすがテレ東、いつも些末なことには動ぜず娯楽に徹する姿勢、留飲を下げたのだが、その後ネットを見ると『昼めし旅』に喰い込んで報道番組を延長させたらしい。

 

 あのテレ東も新元号には負けるのか四月馬鹿(字余り)

 

 新元号は令和というらしい。万葉集大伴旅人の文章からとったという。

これに対して中国の反応は、

 

「このことは日本の内政だ。私たちはコメントしない」(中国外務省 耿爽報道官)

 

 木で鼻をくくるとはこのこと。中国らしい。それはそれでいいのではと思っていたら、少し経って

「新元号の出典が漢籍ではなく初めて日本古典となったことについて、中国紙の環球時報(電子版)は「中国の痕跡は消せない」の見出しで、引用元の「万葉集」も中国詩歌の影響を受けていると指摘。ネットユーザーの間では新元号のもともとの出典は後漢の文学者、張衡の韻文「帰田賦」だとの主張も目立った。」(産経新聞

 

 

中国の人たちのなかには、黙っていられない人が多いのか。

 トランプのアメリカファースト同様、中華思想からすれば小さな属国に過ぎない日本。所詮、文字も文化もみな我が国からの輸入品ではないか、えらそうにするなということだ。

 韓国の左派系新聞ハンギョレ

 

「新元号の出典について「安倍晋三政権の保守的色が日本の古典を出典とする年号誕生の背景にあるようだ」との分析を掲載した。」という。

 

 こちらは素直に日本の古典を出典とするということを認めたうえで、その保守的色を指摘。今の不安定な関係からすれば当然かもしれない。しかし欧米のマスコミの捉え方もこれに似ていて安倍政権のナショナリズム志向を指摘しているようだ。

 

 菅官房長官に続く記者会見で、滔々と令和について話す安倍首相を夕方のニュースでみた。懸命に出典を暗唱して、smapの「世界にひとつだけの花」につなげて思いっ切りの我田引水、安倍首相でなくとも、このタイミングでこの談話、下品だなと思う。

 憲法を持ち出すまでもなく、皇室の政治利用に抵触するのではないかとは毫も思わないのだ。逆にそのことを突きつけられれば、「新元号を寿ぐことのどこがいけない、私は首相という国の政治に責任を持つ立場から、率直な思いを述べたにすぎない。皆さんがツイッターなどでやっていることと同じ」などと早口で開き直りの口上をまくしたてるのだろう。率直だからいいとは言えない。率直さがかえって国の政治をゆがめることもあるのだ。

 

 さて、元号を日本の古典に出典を求めるというのなら、漢字ではなく日本でつくられたひらがながいいのではないか。

 ひらがなは漢字をもとにしたカタカナから出来たもの。カタカナも元のかたちが残っていて面白いけれど、戦時中に漢字と一緒に多用されたことを考えると、女文字と云われたひらがなの元号が良いのではないだろうか。それならば漢語ではなく和語が使える。

 ひかり元年、ふるさと15年、いなづま30年、たんぽぽ3年、ほととぎす23年なんてどうだろうか。

 

 西暦がいいと思っているわけではない。相対的に見て他国との比較や対照をするときには便利だと思うから使っている。長い間の性癖としてさまざまな書類に日にちを記入するとき、なるべく元号は使わないようにしてきた。

 平成も後半になってようやく元号、西暦どちらでも標記できるように「   年」とする書類が増えてきた。改元を契機にまた元号使用が増えていくのかもしれない。

 

 

 元号の制定は、制定する側の価値観に基づいて民衆の時間を支配しようとする行為だと私は思う。

 沖縄大学の学長を務めた横浜の元小学校教員加藤彰彦さんが推奨していた元号「戦後」を考えれば頷ける。アジア太平洋戦争を最後の戦争とするべく、戦後74年の時間を非戦という概念で支配するということだ。

 制定する側の価値観に基づいて「時間を支配」するという点でフェアな発想だと思う。

 そう考えれば、元号はそれぞれ自分の価値観に基づいて自分で決めればいいということになる。その人(たち)にとって、忘れられない事象をもとに。

 それは震災かもしれないし、地震かもしれないし飛行機事故、あるいは交通事故かもしれない。家族の死かもしれないし、ようやく念願かなって産まれ出た我が子かもしれない。新たな得恋までの失恋、相手の名前もいいだろう。

 この元号、家族や友人だけが知っていさえすればいいし、だれにも知られなくてもいい。たった一人で新年を迎えた時、カレンダーの表紙に「○○何年」と記入する。

自分の時間は自分が支配する。だれかに支配されたくない。自分の人生は自分のものなのだから。